グリーンとピンクのあいだ

関ジャニ∞とか、NEWSとか、Sexy Zoneとか。ジャニヲタです。コンレポとかセトリも書きます。

あれから5年。

早いもので、東日本大震災から5年の月日が流れました。 

5年前を彷彿とさせるくらい寒い日でした。 
あの日も寒かった。 
翌日からもしばらくは3月とは思えない冬日だったことを昨日のことのように思い出します。 


ほぼ毎年いろいろ書いてきましたが、今年はあの日と同じ3月11日(金曜日)でしたね。 
あの日 
「なんで歩いてまで帰るんだろう」 
と思った、曜日感覚のない私ですが。 
一般企業にお勤めの皆さんが歩いてまで帰りたかったのは翌日が土曜日だったからですよね。 

会社に泊まるくらいなら歩けるだけ歩こうと。なるほど実に納得です。 


私自身はちゃっかり帰宅困難者の一員であり、携帯の充電も怪しくなった結果、報道もほとんど確認できない状態でしたが 
「どうやら震源は東北らしい」 
「すごい津波がきたらしい」 
大津波警報というものが出てるらしい」 
くらいはさすがにわかっていました。 

私は津波を見たことがありません。 
そのスピードも、驚異も、恐怖も、何も知らないままです。 
私にわかってることは、震度5強津波ではお台場の防波堤は越えなかったということくらいです。 


私は、自身の揺れ自体は全く怖くありません。 
津波は経験したことがないので怖いのかどうかわかりません。 

私が5年前に一番怖いと思ったこと、そして今も怖いと思っていることは、自然の驚異の前に起きるパニックであり、人的二次被害にほかならないのですが。 


どんなことが怖いのかという差はあるにせよ、今日は犠牲になられた方々を偲び、ご冥福をお祈りする日なのだと、5年前の記憶を薄れさせないという、一番大事なことを意識する日なんだと、思っています。 




今日はまだニュース読めてないので昨年の記事から。 

http://www.asahi.com/articles/ASH3B6J5XH3BULBJ010.html 
(リンク切れ対策のため全文) 


東日本大震災追悼式の宮城県遺族代表、菅原彩加(さやか)さん(19)=石巻市出身=のことば 

私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。 

 小さな集落でしたが、朝学校へ行く際すれ違う人皆が「彩加ちゃん! 元気にいってらっしゃい」と声をかけてくれるような、温かい大川がとても大好きでした。 

 あの日、中学の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起き、地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人をのみ込みました。 

 しばらく流された後、私は運良く瓦礫(がれき)の山の上に流れ着きました。その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見てみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。右足が挟まって抜けず、瓦礫をよけようと頑張りましたが私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。「行かないで」という母に私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。 

 そんな体験から今日で4年。 

 あっという間で、そしてとても長い4年間でした。家族を思って泣いた日は数えきれないほどあったし、15歳だった私には受け入れられないような悲しみがたくさんありました。全てが、今もまだ夢の様です。 

 しかし私は震災後、たくさんの「諦めない、人々の姿」を見てきました。震災で甚大な被害を受けたのにもかかわらず、東北にはたくさんの人々の笑顔があります。「皆でがんばっぺな」と声を掛け合い復興へ向かって頑張る人たちがいます。日本中、世界中から東北復興のために助けの手を差し伸べてくださる人たちがいます。そんなふるさと東北の人々の姿を見ていると「私も震災に負けてないで頑張らなきゃ」という気持ちにいつもなることが出来ます。 

 震災で失った物はもう戻ってくることはありません。被災した方々の心から震災の悲しみが消えることも無いと思います。しかしながらこれから得ていく物は自分の行動や気持ち次第でいくらにでも増やしていける物だと私は思います。前向きに頑張って生きていくことこそが、亡くなった家族への恩返しだと思い、震災で失った物と同じくらいの物を私の人生を通して得ていけるように、しっかり前を向いて生きていきたいと思います。 

 最後に、東日本大震災に伴い被災地にたくさんの支援をしてくださった皆様、本当にどうもありがとうございました。また、お亡くなりになったたくさんの方々にご冥福をお祈りし追悼の言葉とさせていただきます。